Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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「生体政治工学」の問題圏へ(承前)――<自己の身体>の創造プロセスと「システムによる生体工学的介入」の接点を切り出す
2013.6/15

1. 導入:基礎的諸概念の構築とそれら諸概念の関係
基礎概念[1] :「生体政治工学的介入」としてのシステムによる生体工学的介入
当初の概念規定の作業においては、「生体政治工学」概念がそこから由来した基礎概念である「生体工学的介入」概念は、生殖細胞系列をその端緒とする形で規定された<人間の身体>――生殖細胞系列・胎児及び出生後の生体が含まれる――に対する、DNAレベルにおける(広義の)改変を含む<生体工学的介入>という操作の孕むさまざまな問題性を焦点化するために構築された。ここでの<人間の身体>領域は、技術的介入の多様な実践及びその展開がそこへと位置づけられる文脈生成過程の変容に伴って、絶えずそれ自身と<非-人間の身体non-human body>領域との境界領域が「識別(規定)不可能な領域」を内包しながら変容するという性格を持つものとして規定されている。また、ここで「生殖細胞系列」とは、その一般的な意味に従って、有性生殖のための配偶子すなわち卵子、卵細胞、精子、精細胞、無性生殖のための胞子、またそれらの元となる細胞としての生殖細胞の総称を意味する。すなわち、当初の<生体工学的介入>概念は、上述の意味での――<非-人間の身体>領域との境界領域を内包した――<人間の身体>領域への技術的介入の多様な実践及びその展開(Nano-technology,Bio-technology,Information-technology,Cognitive scienceなどの各様態における技術的介入あるいはそれらが複合・融合・収束した諸様態における技術的介入)として定義された。
ところで、<生体政治的効果>――上記<人間の身体>領域としての生体領域と何らかの「政治的実践・行為」(その主体は個人・集団のいずれでもあり得る)との相互作用の効果――への着目により、上記<生体工学的介入>という事態を同時に<生体政治工学的介入>として読み替えることが可能である。本発表においてはこの読み替えを行う。この場合、<生体工学的介入>という事態は、その都度の多様な<生体-政治>(Bio-politics)の文脈生成過程においてこの<生体-政治>と不可分な生成的様態にある何らかの「政治的実践・行為」として分析される。ここでは、上記概念規定の成分としての「政治的実践・行為」及び「技術(的介入)」という事態の含意がその相互関係性においてあらためて問われることになる。
言い換えれば、<生体工学的介入>は、つねにすでに何らかの<生体政治工学的介入>という事態であり、その都度固有な<人間の身体>領域としての生体領域に関わるさまざまな政治的実践・行為の文脈の生成過程において生成する。
ここにおいて、上記意味における「生体政治工学的介入」概念が組み込まれたものとしての「システムによる生体工学的介入」という概念を提起する。以上の基礎概念の構築作業が、本発表が提起する探究プロジェクトの出発点となる。
基礎概念[2]<自己の身体>
自己の身体とは、私たちがはっきりと意識することはなくても、この私の身体と感じるその身体のことである。メルロ=ポンティによれば、「自己の身体は、始原的な習慣であって、他の一切の習慣を条件づけ、それらを了解できるものとする習慣である。」ここで焦点化されるのは、そのつどの状況における一つの経験を構成するあらゆる要因の結節点としてこの私の身体を生きるという生成のプロセスであり、時間性と空間性の多様なセット(ある固有な時空)の創出または創造という出来事でもある。
例えば、「この人は、これほど重い容態なのに、周りの人の手を借りながらも、なぜ一度も欠かさず歯磨きを続けようとするのか」という問いが生じる状況があり得る。この患者にとって、歯磨きという一見単純で、ありふれた日常的所作は、たとえ死に直面するその間際にまで接近したのち途絶するほかないものであったとしても、その生存のすべてを凝縮した奥深い水源地としてあり続ける。あるときこの他者は、私たちの眼の前で、歯を磨くことも、スプーン一杯の水を飲むことも、もはやなにひとつできなくなって急速に崩壊していくことになるのだとしても、私たちは、その人がさまざまな他者たちの間で、あくまでそのように生きようとした、その事実を消すことができない。私たちは、その人があくまでそのように生きようとした、その事実のみが大切なのだとすらいえるだろう。それは、どれほどありふれたものに見えようとも、他者たちの身体との相互交錯的(過程の)反復のただなかで、不断に持続される特異かつ固有な創造過程である。
だが、この私の身体という安定した、持続的なものが――しかしその安定性、持続性は時間性と空間性の孕む多様性により絶えず振動しているのだが――崩壊することがあり得る。このことは、この私の身体と同時に成立する世界そのものに裂け目をもたらすことになる。この身体=世界の経験の裂け目においては、「まさにこの私の痛み」(「この私の経験」)も、「痛みというもの」(「私たちの経験」の枠組み)も同時に失われてしまう。そこでは、私たちに共有されるはずの言語活動(の形式)、あるいは生活形式でもある言語ゲームが機能しなくなるのである。
ここでは誰もが「異邦人」になる。いわば「正統派集団」を欠いた――この状況においては「正統派」である彼女たちあるいは彼らがいったいどこの誰なのか誰にもわからない――異邦人たちのあげる叫び声が、私たちみずからの生存の危機を告げる。「まさにこの私の経験」は「私たちの経験」とともに絶えず逃れ去り、それまで眼の前にあったはずの光景は砂のように分散していく。しかし、むしろそのときこそ、私たちの世界の消滅とはいったいなんだったのか、そしてこの問いを問う私たちとはいったい誰なのかが問われることになる。この問いが、本発表が提起する探究プロジェクトのベースを成している。
以後の探求において鍵になるのは、<自己の身体>の創造プロセスとしての、この私の身体と他者の身体との相互交錯的反復という経験のプロセスである。<自己の身体>とは、複数の身体の界面における相互交錯的反復というプロセスであり、ある固有な時空としてのその界面の創造プロセスが同時に身体=世界という経験の生成プロセスとなる。以下に、この自己の身体と世界の同時的な創造プロセスが生起する条件を記述する。
[1] 端的にそれ自体存在すると同時に、世界あるいは状況のただなかで私の意識が出会う他者という両義的な存在に対する介入実践とは、身体図式としての経験のシステムのさらなる生成母胎としての自己の身体の経験であり、それはこの私の身体と他者の身体との相互交錯的反復の経験として現象する。
[2]自己の身体とこの私の意識は、[1]の相互交錯的反復の経験における同時的かつ相互的な関係性のうちにある。
[3] 自己の身体とこの私の意識は、これら両者を結び付ける何らかの因果性のうちには位置しない。すなわち、自己の身体が、原因としてのこの私の意識の超越論的構成物(結果)ではないのと同様に、この私の意識は、原因としての自己の身体の因果的効果(結果)ではない。言い換えれば、自己の身体は、この私の意識の因果的成立条件という位置づけを持たない。[2]と[3]は一種の心身並行論的スピノザ主義を構成するだろう。
[4] 自己の身体は、そのシステムまたは機能的メカニズムが分析可能な何らかの主観的構造とは異なったレベルに位置づけられる。もし何らかの主観的構造の機能的メカニズムが可能的経験の条件として完全に分析され得たとしても、この主観的構造がそれ自体としてクオリアの質感そのものという固有な経験あるいは現象の構成的条件でもあるのかという問いは、どこまでも決定不可能なものにとどまる。
 メルロ=ポンティの言葉を使えば、自己の身体の経験とは、そこにおいて「身体の空間的・時間的統一性、相互感覚的統一性」が生成する固有な――この私の身体と他者の身体
との相互交錯的反復の――経験である。
この経験のプロセスに関して、次の記述が参照できる。「心の起源を明らかにするためには、最終的には、「今」(Now)が特別な意味を持つような時間の構造をつくり出す必要がある。空間の中で、「私」という視点が占める特別性と、時間の流れの中で「今」という時点が占める特別性の間には、何らかの内的な関連性があるように思われる。」(茂木健一郎 1998,1999:http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html)
上記引用における「空間の中で、「私」という視点が占める特別性」」を、「空間の中で、「ここ」という視点が特別な意味を持つ空間の構造」と読み替えるなら、以下のテーゼを提示できる。
[5]身体の空間的・時間的統一性、相互感覚的統一性の生成プロセスとは、「今」が特別な意味を持つような時間の構造と「ここ」が特別な意味を持つ空間の構造との、ある始原的=潜在的レベルでの相互的かつ同時的な関係性における総合形式の生成プロセスである。この意味において、われわれは、この時空構造の総合形式の生成プロセスを、<自己の身体>の経験と呼ぶことができる。
「私たち」がそのつどの経験のプロセスを創造していくプロセスは、複数の身体の界面(interface)における相互交錯的反復という事態が孕む絶対的な偶発性(偶然性)を包み込んでいる。私たちが経験の無限の多様性に目覚めるのだとすれば、それはこの絶対的な偶発性(偶然性)がそうさせるのだといえる。私たちは、この絶対的な偶発性をいつもすでに肯定してしまっている。その肯定のプロセスが、経験の無限の多様性を生み出し続ける私たち自身の生そのものである。
以上の概念規定を踏まえて、本発表が焦点化するのは、先に規定された「生体政治工学的介入」――すなわちこの「生体政治工学的介入」としての「システムによる生体工学的介入」――が<自己の身体>の創造プロセスと遭遇するその接点あるいは界面が、まさにこの私の身体と複数の身体の相互交錯的反復という経験としてどのように生成するのかという問いである。この問いが、「<自己の身体>の創造プロセスとシステムによる生体工学的介入の接点を切り出す」という本発表のテーマ(提起する探究プログラム)に他ならない。
基礎概念[3]<広場>
「広場」とは、私たち一人ひとりがお互いに出会い、なにかを分かち合う場である。はじめはお互いに見知らぬ者たちと、またそれまでの生活において見知っていた者であったとしても、それぞれがどこに所属(帰属)しているのかをはじめとするあらゆる既存の属性と関わりなく。つまり特定の価値や序列とは離れて、またはそこから程度や質の差はあれ「離脱する」という条件において。この「離脱」は、他の様々な時空に生きる個人や集団との「帰属横断的ネットワーク化」――この「横断(性)」はそれぞれの帰属に対する超越をもたらす――という事態をもたらす。広場とは、複数かつ多様な個人が、そのつどの対話を通じて、集団として創っていく時空である。それはあらかじめどこかに用意されているというものではない。「広場」とは、その創造プロセスが同時に、既述の<自己の身体>の創造プロセスとしての、この私の身体と他者の身体との相互交錯的反復という経験のプロセスである。以後、この「広場」の創造プロセスを「システムによる生体工学的介入」との接点あるいは界面において考察する。
そのために、仮説的にではあるが、上記接点あるいは界面において焦点化する二つのモメントとして、[1]「世界宗教性」:普遍性の場というモメント(X=非A;無限判断領域)、[2]「対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性」というモメント(X=not A;否定判断領域)を考える。
さらに、それら両者のその都度固有な形における複合的な生成という事態を考える。現実の接点あるいは界面の生成過程においては、これら両モメントがさまざまな度合い(極限としてのゼロから任意の度合いまで振動し変化する内包的な強度)において複合すると考えられる。
まず、上記[1][2]の差異に関して概念的な規定を行う(昨年度の発表を参照)。
<非 A>という領域は、ある先取りされた「全体」の内部の一定の領域=Aの外部領域(not A)ではない(「カントが行った否定判断と無限判断の区別」)。この私は、その「全体」を先取りしてとらえることのできないいわば虚空のただなかにそのつど投げ出されている。全体化不可能なそのつどの私が生きる場所、あるいはこの私の生のプロセスそのものがこの私にとっての無限(判断)領域=<非 A>となる。この無限(判断)領域としての私自身の生を、私は私自身だけでそのもの=Aとして捉えることはできない。その意味で、この私自身が、たえず自らの生との格闘を迫られる何か=Xとして、そのものとしてはある種の無としての無限(=非 A)だともいえる。
2. 探究課題=問題提起
探究の焦点は、その内包的なモメントの強度とその複合として捉えられ焦点化された接点あるいは界面のある種の「宗教性」の分析と、さまざまな政治的実践・行為の文脈の内包する「政治性」の分析を何らかの形で接合させることである。言い換えれば、上記「宗教性」の分析が<自己の身体>の創造と「生体政治工学的介入」(システムによる生体工学的介入)との接点あるいは界面に適用される際には、その分析は同時にこの「宗教性」が内包する「政治性」の分析となる。
<広場>の「世界宗教性」というモメントは、他の様々な身体へと開かれた生のプロセスを担保する。他方、「対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性」というモメントは、この開放性を既存の価値序列の下へと閉塞させていくポテンシャルとなる。これら「宗教性」の両モメントのその都度固有な形における複合的な生成が内包する「政治性」が、<広場>の創造の鍵となる<自己の身体>の創造プロセスのエレメントそれ自体をあらかじめ、またはそのつど消去する可能性を考える。
現在この私の身体(自己の身体)は、その創出=創造過程をあらかじめかつリアルタイムで不断に阻止するような形で生体政治工学的な介入操作へと組み込まれている。この組み込みという事態は、時空間的にグローバルレベルで――すなわちグローバル時間とグローバル空間のセットにおいて――展開し、またその超ミクロ的な時空が内包する政治性において偏在的なシステムとなっている。システムのテクノロジーと諸装置は、<自己の身体>を生きる生体としての言語的・情動的領域との関係性を選択的に除去した地点で私たちの生と死をコントロールし、私たちの生存と生存諸領域そのものを解体し構築することを自らの機能としている。
このような性格を持つシステマチックな生体政治工学的介入の持つ「政治性」が、従来きわめて「人間的な」ものとされてきた、あるいは「人間的なものの核」に存在するとすら考えられてきた対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性と不可分なものとして抽出されることに注目しなければならない。
3.主要事例の提示
既述のような<広場>の創造があらかじめ、またリアルタイムに阻止されるような「政治性」と「宗教性」のセットを考えることができる。例えば、<広場>の創造という行為が、「公(おおやけ)」、「お上(国・行政)」といった「日本語」の言説実践が指示し構築するシステマチックな時空間(すなわちシステム)によって回収され消去されるという事態が考えられる。
例えば「公園」は、「私企業」が経営するなんらかのショッピングモールやテーマパークに類するものに組み込まれたものでなくても、事実上限られた時空間においてのみお上によって許可されたゾーンに過ぎない。むろんそこでは、許可されたことしかできない。そのほかどんなところ(時空間)も同じような状況となっている。この「公(おおやけ)」、「お上(国・行政)」といった表現の内実を分析するに際して、「日本国民」を対象とする事例ではなく、「マイナンバー法案」成立施行以後の「日本国民」(ただし中長期在留者、特別永住者等の外国人住民も対象となる)のデータベース管理の現実的な参照先となるであろう「在日外国人留学生)」のデータベース管理が事例となる。
ここで、いわゆる「なりすまし」などの広義のサイバー攻撃によるデータベースのハッキングの可能性を考える。これにより、私たちの<自己の身体>に刻み込まれる非身体的および身体的変形という過程において国家システムが構築するシステマチックな時空間と(グローバルなアウトソーシング先または連携相手の)「私企業」が構築するシステマチックな時空間との調整された時空間の「カップリング・システム」の生成という問題が浮上する。この「カップリング・システム」の整備は、国家とグローバル企業が連携して防御と攻撃の両面において遂行される広義のサイバー戦争の基本的な必要条件となる。
広義のサイバー戦争という領域における私たちの<自己の身体>に対するシステマチックな生体政治工学的介入は、同時に国家の活動であり企業の活動でもある<広場>の消去システムへと変容する。この<広場>の消去システムへの変容過程において、システマチックな生体政治工学的介入は、(グローバル資本の活動に見られる)世界宗教性および(出入国管理のデータベース管理に見られる)対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性というその二重の「宗教性」の複合的な生成が内包する「政治性」を持つシステムとして、「資本(主義)」と「国家システム」の先端的かつ偏在的な媒介・中継領域となる。
4. 結論
先に、システマチックな生体政治工学的介入と<自己の身体>の創造過程の現実の接点あるいは界面の生成過程においては、既述の二つの「宗教性」のモメントがさまざまな度合いにおいて複合すると述べた。言い換えれば、私たちは、<自己の身体>の創造プロセスでもある<広場>の消去システムへの変容過程のただなかにおいて――あるいは、であるからこそ――複数の<自己の身体>と生体政治工学的介入の界面で反復される運動の様態それ自体を変容させる集団的・帰属横断的なポテンシャルを持っている。現在のところ予想でしかないが、普遍的開放性の領野としての<広場>の創造作業にとって最も過酷な、しかし今や常態的な(戦時=平時)あり方を取ったサイバー戦争という領域においてこそ、<自己の身体>を根底的に変容させるポテンシャルを現実化させることができるのではないか。


皇學館大學 研究発表 ダイアグラム & 縮約版
皇學館大學 「宗教と社会」学会研究発表 「生体政治工学」の問題圏へ(承前)――<自己の身体>の創造プロセスと「システムによる生体工学的介入」の接点を切り出す
2013.6/15

ダイアグラム
1. 導入:基礎的諸概念の構築とそれら諸概念の関係
[1] :「生体政治工学的介入」としてのシステムによる生体工学的介入
<生体政治工学的介入>:その都度固有な<人間の身体>領域としての生体領域に関わるさまざまな政治的実践・行為
[2]<自己の身体>:他の身体との相互交錯的(過程の)反復のただなかで、不断に持続される特異かつ固有な創造過程:身体=世界という経験の生成プロセス
⇒「生体政治工学的介入」が<自己の身体>の創造プロセスと遭遇するその接点あるいは界面の焦点化
[3]<広場>:その創造プロセスが同時に、<自己の身体>の創造プロセスとしての、この私の身体と他の身体との相互交錯的反復となる経験のプロセス
2. 探究課題=問題提起
「世界宗教性」と「対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性」
これら「宗教性」の両モメントの複合的な生成が内包する「政治性」が、<自己の身体>の創造プロセスのエレメントそれ自体をあらかじめ、またはそのつど消去する可能性
3.主要事例の提示
<広場>の創造があらかじめ、またリアルタイムに阻止されるような「政治性」と「宗教性」のセット:<自己の身体>に刻み込まれる非身体的および身体的変形という過程において国家システムが構築するシステマチックな時空間と(グローバルなアウトソーシング先または連携相手の)「私企業」が構築するシステマチックな時空間との調整された時空間の「カップリング・システム」
⇒(グローバル資本の活動に見られる)世界宗教性および(出入国管理のデータベース管理に見られる)対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性というその二重の「宗教性」の複合的な生成が内包する「政治性」を持つシステム
⇒「資本(主義)」と「国家システム」の先端的かつ偏在的な媒介・中継領域
4. 結論
私たちは、<自己の身体>の創造プロセスでもある<広場>の消去システムへの変容過程のただなかにおいて――あるいは、であるからこそ――複数の<自己の身体>と生体政治工学的介入の界面で反復される運動の様態それ自体を変容させる集団的・帰属横断的なポテンシャルを持っている。
⇒<広場>の創造作業にとって最も過酷な、しかし今や常態的な(戦時=平時)あり方を取ったサイバー戦争領域において<自己の身体>を根底的に変容させるポテンシャルを現実化させることができるのではないか。


縮約版
1. 導入:基礎的諸概念の構築とそれら諸概念の関係
[1] :「生体政治工学的介入」としてのシステムによる生体工学的介入
<生体工学的介入>という事態は、その都度の多様な<生体-政治>(Bio-politics)の文脈生成過程においてこの<生体-政治>と不可分な生成的様態にある何らかの「政治的実践・行為」として分析される。言い換えれば、<生体工学的介入>は、つねにすでに何らかの<生体政治工学的介入>という事態であり、その都度固有な<人間の身体>領域としての生体領域に関わるさまざまな政治的実践・行為の文脈の生成過程において生成する。この「生体政治工学的介入」概念が組み込まれたものとしての「システムによる生体工学的介入」という概念を提起する。
[2]<自己の身体>
<自己の身体>とは、他の身体との相互交錯的(過程の)反復のただなかで、不断に持続される特異かつ固有な創造過程である。この複数の身体の界面における相互交錯的反復において、ある固有な時空としてのその界面の創造プロセスが同時に身体=世界という経験の生成プロセスとなる。本発表の焦点は、「生体政治工学的介入」が<自己の身体>の創造プロセスと遭遇するその接点あるいは界面が、この私の身体と複数の身体の相互交錯的(過程の)反復という経験としてどのように生成するのかという問いである。
[3]<広場>
「広場」とは、その創造プロセスが同時に、<自己の身体>の創造プロセスとしての、この私の身体と他の身体との相互交錯的反復という経験のプロセスである。以後、この「広場」の創造プロセスを「システムによる生体工学的介入」との接点あるいは界面において考察するために、[1]「世界宗教性」:普遍性の場というモメント(X=非 A;無限判断領域)、[2]「対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性」という二つのモメント(X=not A;否定判断領域)を考える。
2. 探究課題=問題提起
上記「宗教性」の分析が<自己の身体>の創造とシステムによる生体工学的介入との接点あるいは界面に適用される際には、その分析は同時にこの「宗教性」が内包する「政治性」の分析となる。<広場>の「世界宗教性」というモメントは、他の様々な身体へと開かれた生のプロセスを担保する。他方、「対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性」というモメントは、この開放性を既存の価値序列の下へと閉塞させていくポテンシャルとなる。これら「宗教性」の両モメントの複合的な生成が内包する「政治性」が、<広場>の創造の鍵となる<自己の身体>の創造プロセスのエレメントそれ自体をあらかじめ、またはそのつど消去する可能性を考える。時空間的にグローバル時間とグローバル空間のセットにおいて展開し、またその超ミクロ的な時空が内包する政治性において偏在的なシステムのテクノロジーと諸装置は、<自己の身体>を生きる生体としての言語的・情動的領域との関係性を選択的に除去した地点で私たちの生と死をコントロールし、私たちの生存と生存諸領域そのものを解体し構築することを自らの機能としている。
3.主要事例の提示
既述のような<広場>の創造があらかじめ、またリアルタイムに阻止されるような「政治性」と「宗教性」のセットを考えることができる。例えば、<広場>の創造という行為が、「公(おおやけ)」、「お上(国・行政)」といった「日本語」の言説実践が指示し構築するシステマチックな時空間(すなわちシステム)によって回収され消去されるという事態が考えられる。
ここでは、「マイナンバー法案」成立施行以後の「日本国民」(ただし中長期在留者、特別永住者等の外国人住民も対象となる)のデータベース管理の現実的な参照先となるであろう「在日外国人留学生」のデータベース管理が事例となる。
ここで、いわゆる「なりすまし」などの広義のサイバー攻撃によるデータベースのハッキングの可能性を考える。これにより、私たちの<自己の身体>に刻み込まれる非身体的および身体的変形という過程において国家システムが構築するシステマチックな時空間と(グローバルなアウトソーシング先または連携相手の)「私企業」が構築するシステマチックな時空間との調整された時空間の「カップリング・システム」の生成という問題が浮上する。この「カップリング・システム」の整備は、国家とグローバル企業が連携して防御と攻撃の両面において遂行される広義のサイバー戦争の基本的な必要条件となる。
広義のサイバー戦争という領域における私たちの<自己の身体>に対するシステマチックな生体政治工学的介入は、同時に国家の活動であり企業の活動でもある<広場>の消去システムへと変容する。この<広場>の消去システムへの変容過程において、システマチックな生体政治工学的介入は、(グローバル資本の活動に見られる)世界宗教性および(出入国管理のデータベース管理に見られる)対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性というその二重の「宗教性」の複合的な生成が内包する「政治性」を持つシステムとして、「資本(主義)」と「国家システム」の先端的かつ偏在的な媒介・中継領域となる。
4. 結論
先に、システマチックな生体政治工学的介入と<自己の身体>の創造過程の現実の接点あるいは界面の生成過程においては、既述の二つの「宗教性」のモメントがさまざまな度合いにおいて複合すると述べた。言い換えれば、私たちは、<自己の身体>の創造プロセスでもある<広場>の消去システムへの変容過程のただなかにおいて――あるいは、であるからこそ――複数の<自己の身体>と生体政治工学的介入の界面で反復される運動の様態それ自体を変容させる集団的・帰属横断的なポテンシャルを持っている。現在のところ予想でしかないが、普遍的開放性の領野としての<広場>の創造作業にとって最も過酷な、しかし今や常態的な(戦時=平時)あり方を取ったサイバー戦争という領域においてこそ、<自己の身体>を根底的に変容させるポテンシャルを現実化させることができるのではないか。



皇學館大學 研究発表version2
1. 導入:基礎的諸概念の構築とそれら諸概念の関係

基礎概念[1] :「生体政治工学的介入」としてのシステムによる生体工学的介入
<人間の身体>領域は、技術的介入の多様な実践及びその展開がそこへと位置づけられる文脈生成過程の変容に伴って、絶えずそれ自身と<非-人間の身体non-human body>領域との境界領域が「識別(規定)不可能な領域」を内包しながら変容するという性格を持つものとして規定される。当初の<生体工学的介入>概念は、<非-人間の身体>領域との境界領域を内包した<人間の身体>領域への技術的介入の多様な実践及びその展開として定義された。
<生体政治的効果>――上記<人間の身体>領域としての生体領域と何らかの「政治的実践・行為」(その主体は個人・集団のいずれでもあり得る)との相互作用の効果――への着目により、上記<生体工学的介入>という事態を同時に<生体政治工学的介入>として読み替えることが可能である。本発表においてはこの読み替えを行う。この場合、<生体工学的介入>という事態は、その都度の多様な<生体-政治>(Bio-politics)の文脈生成過程においてこの<生体-政治>と不可分な生成的様態にある何らかの「政治的実践・行為」として分析される。言い換えれば、<生体工学的介入>は、つねにすでに何らかの<生体政治工学的介入>という事態であり、その都度固有な<人間の身体>領域としての生体領域に関わるさまざまな政治的実践・行為の文脈の生成過程において生成する。
ここにおいて、上記意味における「生体政治工学的介入」概念が組み込まれたものとしての「システムによる生体工学的介入」という概念を提起する。

基礎概念[2]<自己の身体>
自己の身体とは、私たちがはっきりと意識することはなくても、この私の身体と感じるその身体のことである。メルロ=ポンティによれば、「自己の身体は、始原的な習慣であって、他の一切の習慣を条件づけ、それらを了解できるものとする習慣である。」ここで焦点化されるのは、そのつどの状況における一つの経験を構成するあらゆる要因の結節点としてこの私の身体を生きるという生成のプロセスであり、時間性と空間性の多様なセット(ある固有な時空)の創出または創造という出来事でもある。それは、どれほどありふれたものに見えようとも、他者たちの身体との相互交錯的(過程の)反復のただなかで、不断に持続される特異かつ固有な創造過程である。
以後の探求において鍵になるのは、<自己の身体>の創造プロセスとしての、この私の身体と他者の身体との相互交錯的反復という経験のプロセスである。<自己の身体>とは、複数の身体の界面における相互交錯的反復というプロセスであり、ある固有な時空としてのその界面の創造プロセスが同時に身体=世界という経験の生成プロセスとなる。
以上の概念規定を踏まえて、本発表が焦点化するのは、先に規定された「生体政治工学的介入」――すなわちこの「生体政治工学的介入」としての「システムによる生体工学的介入」――が<自己の身体>の創造プロセスと遭遇するその接点あるいは界面が、まさにこの私の身体と複数の身体の相互交錯的反復という経験としてどのように生成するのかという問いである。

基礎概念[3]<広場>
「広場」とは、私たち一人ひとりがお互いに出会い、なにかを分かち合う場である。はじめはお互いに見知らぬ者たちと、またそれまでの生活において見知っていた者であったとしても、それぞれがどこに所属(帰属)しているのかをはじめとするあらゆる既存の属性と関わりなく。つまり特定の価値や序列とは離れて、またはそこから程度や質の差はあれ「離脱する」という条件において。この「離脱」は、他の様々な時空に生きる個人や集団との「帰属横断的ネットワーク化」――この「横断(性)」はそれぞれの帰属に対する超越をもたらす――という事態をもたらす。広場とは、複数かつ多様な個人が、そのつどの対話を通じて、集団として創っていく時空である。それはあらかじめどこかに用意されているというものではない。「広場」とは、その創造プロセスが同時に、既述の<自己の身体>の創造プロセスとしての、この私の身体と他者の身体との相互交錯的反復という経験のプロセスである。以後、この「広場」の創造プロセスを「システムによる生体工学的介入」との接点あるいは界面において考察する。
そのために、仮説的にではあるが、上記接点あるいは界面において焦点化する二つのモメントとして、[1]「世界宗教性」:普遍性の場というモメント(X=非 A;無限判断領域)、[2]「対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性」というモメント(X=not A;否定判断領域)を考える。さらに、それら両者のその都度固有な形における複合的な生成という事態を考える。現実の接点あるいは界面の生成過程においては、これら両モメントがさまざまな度合い(極限としてのゼロから任意の度合いまで振動し変化する内包的な強度)において複合すると考えられる。
まず、上記[1][2]の差異に関して概念的な規定を行う(昨年度の発表を参照)。
<非 A>という領域は、ある先取りされた「全体」の内部の一定の領域=Aの外部領域(not A)ではない(「カントが行った否定判断と無限判断の区別」)。この私は、その「全体」を先取りしてとらえることのできないいわば虚空のただなかにそのつど投げ出されている。全体化不可能なそのつどの私が生きる場所、あるいはこの私の生のプロセスそのものがこの私にとっての無限(判断)領域=<非 A>となる。この無限(判断)領域としての私自身の生を、私は私自身だけでそのもの=Aとして捉えることはできない。その意味で、この私自身が、たえず自らの生との格闘を迫られる何か=Xとして、そのものとしてはある種の無としての無限(=非 A)だともいえる。
2. 探究課題=問題提起
探究の焦点は、その内包的なモメントの強度とその複合として捉えられ焦点化された接点あるいは界面のある種の「宗教性」の分析と、さまざまな政治的実践・行為の文脈の内包する「政治性」の分析を何らかの形で接合させることである。言い換えれば、上記「宗教性」の分析が<自己の身体>の創造と「生体政治工学的介入」(システムによる生体工学的介入)との接点あるいは界面に適用される際には、その分析は同時にこの「宗教性」が内包する「政治性」の分析となる。
<広場>の「世界宗教性」というモメントは、他の様々な身体へと開かれた生のプロセスを担保する。他方、「対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性」というモメントは、この開放性を既存の価値序列の下へと閉塞させていくポテンシャルとなる。これら「宗教性」の両モメントのその都度固有な形における複合的な生成が内包する「政治性」が、<広場>の創造の鍵となる<自己の身体>の創造プロセスのエレメントそれ自体をあらかじめ、またはそのつど消去する可能性を考える。
現在この私の身体(自己の身体)は、その創出=創造過程をあらかじめかつリアルタイムで不断に阻止するような形で生体政治工学的な介入操作へと組み込まれている。この組み込みという事態は、時空間的にグローバルレベルで――すなわちグローバル時間とグローバル空間のセットにおいて――展開し、またその超ミクロ的な時空が内包する政治性において偏在的なシステムとなっている。システムのテクノロジーと諸装置は、<自己の身体>を生きる生体としての言語的・情動的領域との関係性を選択的に除去した地点で私たちの生と死をコントロールし、私たちの生存と生存諸領域そのものを解体し構築することを自らの機能としている。

3.主要事例の提示
既述のような<広場>の創造があらかじめ、またリアルタイムに阻止されるような「政治性」と「宗教性」のセットを考えることができる。例えば、<広場>の創造という行為が、「公(おおやけ)」、「お上(国・行政)」といった「日本語」の言説実践が指示し構築するシステマチックな時空間(すなわちシステム)によって回収され消去されるという事態が考えられる。
例えば「公園」は、「私企業」が経営するなんらかのショッピングモールやテーマパークに類するものに組み込まれたものでなくても、事実上限られた時空間においてのみお上によって許可されたゾーンに過ぎない。むろんそこでは、許可されたことしかできない。そのほかどんなところ(時空間)も同じような状況となっている。この「公(おおやけ)」、「お上(国・行政)」といった表現の内実を分析するに際して、「日本国民」を対象とする事例ではなく、「マイナンバー法案」成立施行以後の「日本国民」(ただし中長期在留者、特別永住者等の外国人住民も対象となる)のデータベース管理の現実的な参照先となるであろう「在日外国人留学生)」のデータベース管理が事例となる。
ここで、いわゆる「なりすまし」などの広義のサイバー攻撃によるデータベースのハッキングの可能性を考える。これにより、私たちの<自己の身体>に刻み込まれる非身体的および身体的変形という過程において国家システムが構築するシステマチックな時空間と(グローバルなアウトソーシング先または連携相手の)「私企業」が構築するシステマチックな時空間との調整された時空間の「カップリング・システム」の生成という問題が浮上する。この「カップリング・システム」の整備は、国家とグローバル企業が連携して防御と攻撃の両面において遂行される広義のサイバー戦争の基本的な必要条件となる。
広義のサイバー戦争という領域における私たちの<自己の身体>に対するシステマチックな生体政治工学的介入は、同時に国家の活動であり企業の活動でもある<広場>の消去システムへと変容する。この<広場>の消去システムへの変容過程において、システマチックな生体政治工学的介入は、(グローバル資本の活動に見られる)世界宗教性および(出入国管理のデータベース管理に見られる)対内対外道徳二元主義的同胞倫理へと閉じた宗教性というその二重の「宗教性」の複合的な生成が内包する「政治性」を持つシステムとして、「資本(主義)」と「国家システム」の先端的かつ偏在的な媒介・中継領域となる。

4. 結論
先に、システマチックな生体政治工学的介入と<自己の身体>の創造過程の現実の接点あるいは界面の生成過程においては、既述の二つの「宗教性」のモメントがさまざまな度合いにおいて複合すると述べた。言い換えれば、私たちは、<自己の身体>の創造プロセスでもある<広場>の消去システムへの変容過程のただなかにおいて――あるいは、であるからこそ――複数の<自己の身体>と生体政治工学的介入の界面で反復される運動の様態それ自体を変容させる集団的・帰属横断的なポテンシャルを持っている。現在のところ予想でしかないが、普遍的開放性の領野としての<広場>の創造作業にとって最も過酷な、しかし今や常態的な(戦時=平時)あり方を取ったサイバー戦争という領域においてこそ、<自己の身体>を根底的に変容させるポテンシャルを現実化させることができるのではないか。

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